みかん山の歴史

「一緒に帰ってください。」

お付き合いしていた彼女はこう言った。いま思えばプロポーズなのだろう。義父の病をきっかけに就農したのが2000年のことだ。結局その年の夏に亡くなったため、一緒に仕事をすることは叶わなかった。

九州熊本の最南端、水俣市。初めて訪れたのは学生時代。面識のない知り合い?が、住み込みで茶摘みのバイトをしているということで、そのお茶農家にお邪魔した。予備知識といえば「公害の原点」、というくらいだった。特にその調査や研究が入口だったわけではなく、そこで生活する、それも3代続く専業農家という家柄の方々との出会いが第一印象であったため、外から水俣に初めて触れる人間としては、ちょっと特異だったのかもしれない。


「なんだこいつ」

水俣出身の友人の友達が抱いた私の第一印象だったらしい。大阪で初対面のその友達は、京都で看護師をしていた。全国青年環境連盟(エコリーグ)が主催する全国ギャザリングへ向かう道中。初対面の印象なんてこんなもんさ。


「競り船大会に出よう」

水俣出身の友人の友達は、私を誘った。1996年に開催された水俣東京展のボランティアスタッフを中心に、招待チーム枠で競り船大会に出場するらしい。「なんだこいつ」から昇格したようだ。人数合わせだろうが、とりあえず参加するため水俣へ。すると現地の受け入れは、あのお茶農家さんだった。

「みかん山で餅つきするよ」

「正月は甘夏元旦マラソンやけんね」

「みかんちぎりば手伝っていかんね」

友人の友達の実家はみかん農家だった。競り船以来、水俣での行事ごとには、立て続けにお誘いをいただき、皆勤賞だった。

学生時代には、いまこの場所でみかん農家として仕事をしているとは、想像もしなかった。土地や人との「縁」を感じる。何か見えないものに引き寄せられたのか、ある人物に陥れられたのかは定かではないが、「流れ」のままに、この土地に落ち着くことになったような気がする。3人の子宝にも恵まれ、少しずつ根を張ることができるようになってきた。10年はやはりひとつの節目であって、この10年を振り返り、この先の10年を思い描くべき時なのだろう。